サロン・ド・タカヤマのお礼と新連載のお知らせ

 19日、20日で開催したサロン・ド・タカヤマ、参加してくださったみなさん、本当にありがとうございました。
 札幌、石巻、新潟、金沢、愛知、滋賀、京都に神戸…。みなさんのお住いの場所をお聞きするたび、あたくしったら申し訳なさでいっぱい…。
 わざわざお越しくださった方々のお気持ちに見合うお話、見合う空間が提供できていたか、自信はないのですが、あたくしなりに全力を尽くしたつもりではあります。

 2日間のサロンで、どんなことが話されたか。少しだけご紹介してみようかと。
ジャンヌ・モローが『突然炎のごとく』や『死刑台のエレベーター』で演じた女性は、日本映画で描かれた場合、「どこまでもイヤなオンナ」というキャラクターでしかなかったと思う。それが「自由で、切実で、真っ向勝負」(突然炎のごとく)な人間として描かれたり、「センシュアルで、アンニュイで、しかし情熱的」(死刑台のエレベーター)な人間として描かれていたからこそ、中学生の小娘だったあたくしに強烈な衝撃をもたらしたの。

●私はけっこう「全面的に信頼している」という言葉を使いますし、そういう友人も何人かいますが、それは「自分のすべてをゆだねる人」とはまったく別の意味。私の「全面的な信頼」は、「私の中の100」を使うものではなく、「私の中のせいぜい5か10しか使わないが、その5か10にきっちり『信頼』という色を塗ること」。その違いはかなり重要。私は「髪の先からつま先までがピッタリ来る相手は、世の中に存在しない」と思っている。そんな私の「全面的な信頼」のあり方は、こんな感じ。それは同時に、私が「誰かと共依存になる」のを未然に防いでくれているとも思う。当然、そのやり方を採用すれば、共依存体質の人たちほどには「パッション」を感じ取ることができなくなるけれど、それは「そのやり方を採用した」際の「コインの裏側」だと思っているの。ちなみに「コインの表側」は「わりと自立した人間同士であっても、充分に『頼り・頼られ』の温かさを感じることができる」ということね。

フェミニズムやゲイスタディが私に「私を補強する言葉」を与えてくれたのは間違いない。そういったものに触れたとき、私とそれらの間で起こった「化学反応」が、「私らしさ」の芽になった。だから私は私のやり方で、自己評価がどうしても低くなりやすい(そういう社会だからね)人たちに向けて、「笑いで自己評価にゲタを履かせる」言葉を書いていけたら、と思っている。

●お金、好きなのよ。大金も、小金(こがね)も。

 なんてことを語っていたわけです。「2日間でたったこれだけ?」とおっしゃらないでね。一応、いらしてくださった方々にはもっともっとお話している(つもり)ですのよ。

 体調を見ながらではありますが、またこういう会を開けたらと思っております。まずはあの空間を一緒に作ってくださったみなさんに心からの感謝を。ありがとうございました。

 気合を入れてはいますが、忘れてはいけない反省も。このブログの3月15日のエントリーで、ラブピースクラブでのエッセイに関するお詫び文を掲載しています。自分を戒めつつ、努力を続けていくつもりです。