夏の幻影(not 松田聖子)

風が吹けば桶屋が儲かる

 という諺がございます。ある出来事が、さまざまな過程をくぐって、思わぬところで強い影響を与えてしまうことを表現した言葉です。サブプライムローンの破綻が日本の恐慌の引き金にもなったとき、この諺をいたるところで耳にした人も多いでしょう。

 さて、話はガラリと変わりますが、近頃、外国人の間で「漢字タトゥー」が大流行中とか。アルファベットで生きてきた欧米人たちには、漢字は何やらミステリアスな印象をもたらすのでしょうか。「愛」だの「頭領」だの「一番」だの、ヤンキー並みに頭の悪そうな漢字タトゥーをよく見かけます。

 そういえばあたくしも以前、トーマスという知り合いに、「俺の名前を強そうな漢字で表現してくれ」と言われ、「倒魔州」と書き、「beating devil's state」と説明したことがございます。暴走族にでもなった気分でしたが、その1ヵ月後、彼が右腕に「倒魔州」というタトゥーを入れてきたときには目まいがいたしました。まあ、本人は気に入っていたようなので、よかったと言えばよかったのですが……。

 そして話は先ほどのことになります。山手線の某駅前で信号待ちをしていたあたくしの横に、身長190センチ・体重120キロオーバー(推測)の、えらいこっちゃマッチョな白人男性が立ちました。大きなバックパックを背負い、手には英語で書かれた真新しい東京のガイドマップが握られていましたから、まだ来日して日が浅い旅行者なのでしょう。こういった方々は冬でもTシャツで出歩くような人種ですから、この蒸し暑さの中では当然のようにタンクトップ1枚です。

 肩は格闘ゲームのキャラクターのように盛り上がり、腕にいたっては一般的な日本人男性の太ももくらいあるのでは……。そんな、あまりのビジュアルのインパクトに、横目でその姿をチェックするあたくし。すると男性のその左腕、日本人でいえばBBC注射を打つあたりに、それほど大きくはないサイズの漢字タトゥーが見えました。まだ入れて間もないのでしょう、黒い文字の回りは内出血で赤黒くなっています。その文字は……








残尿感








 でした……。鼻水が出るほど噴き出してしまったのを、すぐに咳き込みへと変化させてなんとかごまかし、信号が青に変わってもしばらくその場で咳き込み続けて、どうにかこうにか平穏にやり過ごしましたが、先をゆく彼はそのまま駅へと消えてゆきます。まさかその腕で山手線に乗るおつもりなの……? 満員電車の中で巻き起こるのはパニックかセンショーションか、あたくし思わず蒸し暑さを忘れてしまいそう……。

 恐らくは本国にいるとき、ろくでもない日本人に「これがいま日本じゃ一番COOOOL!」などと騙されてこの三文字熟語を教わり、誰に確認することもないまま、漢字の意味をまったく知らない彫り師に彫らせたのでしょう。彼にとっては二重、いえ三重の悲劇。そして墨が肌に馴染むのも待ちきれず来日、「どうだ! 俺って日本通だろう!?」と日本人たちに見せびらかした時点で、悲劇完成です……。

 あたくしも「エトランゼには親切にしなければ」くらいのマナーは持っておりますが、この場合、どうにも声をかけるのがためらわれてしまって……。もし真実を話してしまったら、彼の帰国後、すぐに陰惨極まりない殺人事件が発生するに違いない……。あたくし、そこまでの大事件に関わることがどうしてもできなかった……。

「高山が親切にすればアメリカの刑務所がパンクする」

 そんな文句が浮かんできて、知らぬ存ぜぬを決め込んだ夏の夜。老い先短い93歳(自己認識年齢)になっても、やっぱりあたくしは我が身が可愛いのです……。っていうか、いまとなっては、「あれは老眼ゆえの見間違いだった」と願うばかりですわ……。