take a step forward!

ヘルタースケルター』の映画版、早く見たいなと思いつつ、なかなか時間がとれなかったり。「楽しみで仕方がない」というよりは、「あの原作のエッセンスがどこまで表現されているか」ということを確かめたいのよね。ラブピースクラブのエッセイで、キャストのひとり・寺島しのぶのコメントに懸念を抱いたことを書いたけれど、それを書いた以上、自分の目で確認しないと。

『愛は毒か 毒が愛か』にも書いたけれど、アタシは岡崎京子の『リバーズ・エッジ』と『ヘルタースケルター』は腸傑作だと思っているわ。「結局ぼくたち(わたしたち)は、どこにも行けないね」という諦念を、胸がえぐられるような密度で描いた『リバーズ・エッジ』に対し、『ヘルタースケルター』は、岡崎京子の「そこからもう一歩、先」を描いた作品だと思っているの。

ヘルタースケルター』は、自分の存在を見ず知らずの大衆の際限のない欲望の生贄にしている人気芸能人「りりこ」が、極めて自覚的に「どこかへ行く」話。メキシコでフリークスのショーに出ることは、「転落」ではなく、「ここではない、どこか」へ行くこと。作品内の岡崎京子の言葉を借りれば、「タイガーリリーの冒険の物語」なのね。

 人生はおとぎ話ではないから、「ここではない、どこか」へ行くことだけでハッピーエンドになったりしない。メキシコへ行き、フリークスショーに出るりりこにも、必ず、苦闘の日々が繰り返し訪れる。体調だって万全ではない(りりこの整形メンテを引き受けていたクリニックは閉鎖される)状態で日本を飛び出しているわけだから、それは容易に想像がつく(突飛で衝撃的なストーリーなのに、このあたりはものすごくリアルだわ)。それでも、「自分の意思で、ここから脱出」しているわけね。

 りりことあらゆる面で対をなす、生まれながらの美人モデル「吉川こずえ」は、りりこに言わせれば「何もかも最初からやすやすと持っている」のに、はじめからすべてを諦めている。このたたずまいは、どこか『リバーズ・エッジ』の主人公たちを想像させるわ。岡崎京子が、『リバーズ・エッジ』で登場させたモデル「吉川こずえ」の名前を、ここで使っているのはかなり意図的ではないかしら。