La vita e bella/It’s a sin to tell a lie

 年に数回、あるいは月に1〜2度、参っている墓がいくつかある。それぞれの故人は、それぞれの宗派に則って埋葬されているはずだが、アタシはどの墓に参るときも、ただ花をさし、ただ線香に火をつけ、ただ墓石に水をかけ、念仏も唱えずに手を合わせている。それが亡くなった人の家(実家を含む)の宗派に適ったものかどうか考えたこともないし、仮に間違っていることが分かったとしても、それほど気に病むことはないと思う。そのくらい、「宗教」というものに対して、アタシは“薄い”。個人的に信奉している宗教を訊かれたら、アタシはいつも「ない」と即答している。

 墓の前で腰を落とし、目をつぶって手を合わせると、亡くなった人の顔が浮かぶ。その人が生きていたときに交わした言葉や表情を反芻し、「そちらで、ゆっくりのんびりできている?」と語りかける。普段の生活で「そちら」があると確信したことは、いままでに一度もない。というか、ないものだと思って生きている。「ない」と思っているものを「ある」かのようにして人に語るのは、墓参のときだけだ。もっと正確に振り返ってみれば、墓参のときだけは「あればいいのにな」くらいは思っている。自分のためというよりも、その人のために。人と言っても、相手は故人だが。

 ラブピースクラブのエッセイでも少し書いたが、アタシは最近、まだ亡くなっていない人の手をとって「あちらで少し待っていてください」と語りかけた。生きている人にそんな言葉を吐くのは生まれて初めてのことだった。まだ生きているうちに自らの死を悟らなくてはならなかった人に、すぐそばにある「死」が必ずしも絶望や終焉という意味ばかりではないと感じてほしくて(決して「知ってほしい」ではなかった)、生まれて初めて、生きている人に向かって「あちら」に関する嘘をついた。そして、「嘘をついている」と気取(けど)られなくて、自分でもその嘘を必死で信じ込もうとした。

嘘つきはなんとやら。じゃあ、自分のついた嘘で自分まで騙そうとするアタシは大悪党ね。まあ、これまでの人生だって、自分のことを無垢だなんて思ったことはないけれど。だってアタシ、強欲が人を形をしているのよ。いろんなものが欲しいの。ドルガバの洋服や白トリュフのジェラートはこの先も何度だって欲しいし、ブレゲの時計はいつか欲しい。欲しい「もの」を挙げていったら、それだけで日が暮れる。しかも、それ以外の「何か」も欲しくなっちゃったんだもの。