イン歯ー(not川上未映子)

 イスラムの女たちは、人前で顔を晒してはならないそうです。あたくしなどはそれを「抑圧的」と捉えてしまうタイプのババアですが、生きてきた文化の違いで「奥床しい」と捉える方もいらっしゃるかもしれません。まあ考えてみましたらば、日本でも遠く遡れば、平安の女たちなどは男たちの前で扇で顔を隠すのをたしなみのひとつとしていたのですから、女が顔を晒すことが、文化によっては随分ハードルの高い行為であることは間違いございません。

「顔を晒す」という行為の是非は文化によって許容度に差がありますが、ものを食べるさまを晒すことはどうなのでしょう。顔を晒すことが歓迎されない文化においては当然のようにNGなのでしょうが、女の自由が保証されている文化においても、「ものを食べる」、つまり「口に何かを入れる」という行為にエロティックな何かを見出し、あらぬ妄想を掻き立てる男たちの存在を見逃すわけにはまいりません。そのせいか、「嫌いな人とは食事なんてしたくない」と言う女たちはかなりの数にのぼります。ちなみにあたくしは、嫌いな相手であっても1万円以上の奢りであれば美味しくご相伴させていただきますが。90歳(自己認識上)のババアがものを口に入れ咀嚼をしたところで、そこにエロティックなものを見出すような筋金入りの好事家の殿方には、未だお目にかかったことはございませんし……。

 さて、この金曜日、あたくしは、ある殿方と銀座で夕餉を共にしておりました。あたくしが少々風邪気味、殿方も風邪が治ったばかりでしたので、お野菜中心のコースがいただけるレストランをチョイスし、「穏やかに栄養をつけましょう」という運びに相成りました(ダイエットもしておりますのでね)。

 前菜の、胡麻の風味豊かな白和えや、天然なめこのおろしポン酢などに舌鼓を打ち、次に出てきたゴボウの天ぷらに、驚きの声をあげたあたくしたち。ささがきのゴボウをかき揚にしたものではなく、15センチほどの長さに切った丸ごとのゴボウを揚げた、インパクトあるビジュアルです。「食べ応えありそうだね」と殿方が箸をつけたのを待って、あたくしも口に運んだのですが、一口目で「ガリッ!」と物凄い音。驚いて「硬い……」と声を出したその瞬間、口から何かが飛び出して、皿の上で「カチーン」と音を立てました。「いやだ、はしたない!」と青くなったあたくしですが、何か腑に落ちません。ゴボウが皿に当たって、こんな金属的な音を立てるでしょうか……。

 皆様、それは、欠けて外れたあたくしの差し歯でした……。あたくし、ちょっとしたアクシデントから前歯を1本差し歯にしているのですが、それがものの見事にゴボウに完敗したのです。すぐに皿の上の差し歯を手に取り、トイレに駆け込んで、差し歯を元の位置に戻そうとしましたが、きれいに割れてしまった差し歯がはまるはずもありません……。

 実はあたくし以前にも、友人のドラァグクイーン・バブリーナと酒席でご一緒したときに、外れた差し歯がすっ飛んで、そのまま美しい放物線を描いてどなたかのグラスに飛び込んでしまったことがありました。そのときは、「まあ! 差し歯が!」と大騒ぎしながら、面白いので歯抜けの顔もばぶ嬢にしっかりご披露申し上げたのですが、今回ばかりは相手が悪かった……。

 トイレから戻ったあたくしに、殿方は「何? どうしたの?」と興味津々で質問をしてきますが、「差し歯」の「し」を発音した瞬間に大爆笑か驚愕かのどちらかの反応をされるのは間違いございません。あたくしは口を真一文字に硬く結んだまま、ナプキンを二つ折りにして三角形を作り、顔の下半分を隠して、後ろで厳重に結び目を作った後で「差し歯が欠けたの……」と言いました。その後はずっと、出された食事を即席のマスクの下からいただくという、ここが平安の世なら雨夜の品定めで男たちの口の端にのぼるような淑女っぷりを発揮したあたくし。味なんか判ったものではありません。

 こうした淑女のピンチに気遣いのひとつも見せるのが紳士というものですが、殿方は“気遣いのひとつ”は脇に置いたまま、「あはは! チョー見てえ! エプロン外しなよ」と、一回どころか十回は言ったでしょうか……。「あたくしがものを口にいれることに、エロティックな何かを見出してほしい」などと高望みをしたことなど誓ってございませんが、かと言って、誰がこんな成り行きを望んでいたというのでしょう。もうこの殿方と食事をすることは金輪際ないでしょう……。

 ちなみにその日、殿方とはサックリ別れて、悔しさ紛れに夜中に2度目のお食事(イタリアンでパスタと仔牛のグリル)をひとりでいたしました……。ダイエット失敗は目前です。ますます『おもろい女』(森光子先生版よりミヤコ蝶々先生版でお願いします)に邁進しているあたくしです……。

 さて、ちなみに、「ちょっとしたアクシデントで差し歯」のことですが……。あれは数年前の冬の朝方、あたくし、キッチンでけつまづき、顔からガスコンロの端に突っ込んで、見事に前歯が砕け散ったのです。「あんな派手なパフォーマンスの代償が前歯1本なら、それはむしろラッキーの範疇に入る」と、何度自分を慰めたか分かりません。みなさん、寒い冬の朝、毛糸の靴下を履いたまま、寝ぼけ眼でフローリングの床を歩くのは自殺行為に他なりませんわよ。「きゃっ」と思った次の瞬間には、顔がガスコンロの端にめり込んでいたりするものです。女は家の中だって、7つの敵がいるもの。くれぐれもお気をつけあそばせ……。