性別やセクシュアリティとは別の何か

 1年半の間に大切な人との別れが3つ。それが多いのか少ないのかわからないけれど、アタシにとって、2007年の秋から今までは、人生の中でもっともシビアな期間のひとつであったことは間違いないわ。頚椎のヘルニアもひどかったし。ようやく肉体的な治療と精神的なリハビリがある程度功を奏し、日常にも落ち着きが溶け込んできたような気が。

 お友達の好意に甘えて「おごられ月間」を何度も設け、さまざまな人とさまざまな話(お下劣ネタを多分に含む)をして、ひとりの時間は読書や音楽鑑賞に身をゆだね、思い出にきっちり向き合い……。別れや災難がない人生なんて存在しないので、降りかかってきたら自分なりに受け止めて消化するしかないのよね。

 さて、リハビリ中に久しぶりに三島由紀夫の『禁色』を再読。初めて読んだのは高校生のときで、そのときからアタシは鏑木夫人に夢中だった(特に第二部からの)。それをゲイの友人に話したら「アンタは十代中盤からイヤな部分ばっかり完成されていたのね」と笑われたけれど、ホント自分でもそう思う。昨日今日でそうなったわけではない、筋金入りのババアってことね。で、今回読んでみても、やはり鏑木夫人は素晴らしかったわ。

 不自然なほどに肩肘張って傲岸不遜の道を進む。それは人によっては疲れる生き方でしかないけれど、そんな(第二部の)鏑木夫人の生き様に感銘を受けてしまった以上、アタシもその種のしち面倒くさい生き方に憧れたことは認めなくてはいけないわね。

 読み進めながら、「不自然なほどに肩肘張って傲岸不遜の道を進む」という意味において、もしかしたら三島も、鏑木夫人にかなりの思い入れを抱いていたのでは……なんて思ったり。ルサンチマンの怪物になった隠れホモのブスジジイ(俊輔)より、ナルシシズムの奴隷と化したイケメンゲイ(悠一)より、はるかに豊かなキャラクターだったりするからね。性別やセクシュアリティの問題ではない「オカマ魂」「ゲイネス」が鏑木夫人から溢れ出している、とアタシには感じられた。「三島の文学作品」ではなく「(さまざまな文献や証言からうかがえる)三島の生き様」を鑑みるに、鏑木夫人・俊輔・悠一の三者の中で三島自身にもっとも近いのは鏑木夫人だと思うわ。

 巻末の解説を読むと、この作品の初出では、第一部終了時点で鏑木夫人は自殺してしまったそうだけど、第二部開始前に変更し、第一部のラストを書き替えてまでして夫人を「再生」させたそう。それを、単に『物語上の』重要人物に三島が与えた命だと見なすことができない……というのは、アタシの独断による穿った考えかしら。

 と、つらつら書き連ねてきたけれど、アタシが鏑木夫人に異様なまでの親しみを覚えたからといって、それで三島と自分を同一視するほどうぬぼれてはいませんわ。それだけははっきりさせておかないとね。